やりたくないことは辞めましょう

昨日、しょぼい喫茶店の店長(えもいてんちょう)に初対面を果たしました働きたい人です。

初対面の時のお話をザックり書きます。
まず最初に「働きたい人さん、ガラケーなのかと思った。」と謎発言を頂く。
どうやらアップしていた写真の解像度がかなりしょぼかったらしい。知らなかった…
一応Androidですが、今後もしょぼい写真どんどん載せていく予定なので皆さん見てくださいね。

そして、しょぼい喫茶店の現在の状況聞く。
場所も内装も写真で見させていただいた感じかなり良かった。もうしょぼい喫茶店にピッタリという感じで。
そこから私が熱エモいプレゼンをする。
丁寧で心地のよい相槌を打ちながら、しっかり聞いてくださいました
まずそれが嬉しかったですね

そして、、なんと!!!
なんとですね!!!
しょぼい喫茶店で働かせてもらえことになりました!
働きたい人から実際に働く人になりました。
最近、私の事を働きたいさんと呼んでくださる方多いですが(そう呼ぶしかない笑)正直、労働意欲はそこまで高くなく…決して労働したい人ではないので改名しないとって話しになる。
次の名前はもう決まったので発表楽しみにしててください

で、しょぼい喫茶店一本に絞るとなるとまぁ金銭的にもネットワーク的にも宜しくない。
山から出てきた私はまずバイトする必要があります
これも前にさらっと触れた気もしますが、私の前職は医療従事者です。鬱病になって辞めました。
すご~く気が進まないけど、その仕事に戻れば職に困る事はないな…という気持ちもちょっとありまして。
前職関連の派遣をやろうかな…とポツリと言ってみました。
するとえもいてんちょう『やめましょう。やりたくないことは辞めましょう。』 と即返されました。
その言葉がどれだけ心強かったことか…
もうね、バッシバシこの言葉が心臓に響いて、やりたくないことはやらなくていいんだ!と改めて思えました。

えもてんさんは無限にお米を生み出せるらしい。
長野のお米絶対うまいですよ~
お米は無限にある→絶対死なない→生きていける→こりゃもう幸せだ
となって盛り上がりました。

そこからしょぼい喫茶店のメニューを考える。
ゴニョゴニョゴニョ話し合う。。。
店長はたまに意識どっかいくっぽいです。その姿が最高にエモい。
メニューには、謎の神々しさを取り入れていく予定なのでこちらも楽しみにしていてください。
もちろんチーズケーキばっちり作りますよ!

そんな感じでフワ~っとしたえもいてんちょうの空気感に包まれながら、6時間近くの長時間かつ初対面が終わりました。

2月12日(月) 11時~16時 エデンにて【出張しょぼい喫茶店】やっていきますので、是非ぜひエモい気分になりたい方来てみてくださいね。

どうやって人はコミュニケーションを取るか

コミュニケーションについて考えたので書きます。

言語と非言語がコミュニケーションに与える影響を示したものとして、「メラビアンの法則」というものがあります。
知ってる方も多いと思うのでそういう方は読み飛ばしてください。

メラビアンの法則は、非言語的コミュニケーションの重要性を説いたもので、コミュニケーションにおいて、人に影響を与える情報の割合は……

言語情報(話の内容や文字など):7%
聴覚情報(声のトーンや話の早さなど):38%
視覚情報(目線、瞬き、動作など):55%
つまり、言語情報が1割、非言語情報が9割であるという一説です。
さらに詳しく説明すると【非言語的コミュニケーション】とは顔の表情、顔色、視線、身振り、手振り、体の姿勢、相手との物理的な距離の置き方、服装や髪型、呼吸、声のトーンなどです。

SNSがとても身近になり、簡単に誰とでも文字での繋がりを持てる様になりました。
相手が何を感じているかを考える際に、ネット上ではこの言語情報からしか情報を得ることが出来ません。
つまり100%のうちわずか7%という、ごくごく僅かな情報しか互いに得ることが出来ないのです。
文字でしかやり取りをしていないのに何となく相手のことが分かったような気持ちになることがありますよね。ですが、あれは錯覚に過ぎません。

では、対面で会話をした場合はどうでしょうか。
目からも耳からも場合によっては鼻からも情報が得られますね。
93%は視覚情報と聴覚情報と言われる非言語的コミュニケーションから入ってきます

この研究は好意・反感などの態度や感情のコミュニケーションについてを扱う実験で発見された法則です。
感情や態度について矛盾したメッセージが発せられたときの人の受けとめ方について、人の行動が他人にどのように影響を及ぼすか?

「好意・反感などの態度や感情のコミュニケーション」において「メッセージの送り手がどちらとも取れるメッセージを送った」場合、「メッセージの受け手は声の調子や身体言語といったものを重視する」という事です。

メッセージの受け手は、想像以上に話し手の言語以外の部分をよく見ています。
矛盾を感じた時には圧倒的に非言語的な部分を重視する訳です
もちろん矛盾を感じない場合には、言語によるメッセージがさらに強化されるのでプラス+プラス=プラスに傾きます
逆に言語的メッセージがマイナスの場合でも、非言語的メッセージが自分にとって好意的に感じられた場合はマイナス+プラス=プラスとなり、どうやってもプラスになる訳です。

非言語的コミュニケーションは文字や言語よりも圧倒的に重視されいる事実があります。

言語情報ばかり得ていると、自分の中で勝手なイメージや先入観がどんどん作られてしまう
そうすると対面した時には既にイメージが固定化されていて、面白い事も面白いと感じられない状況を自ら作り出してしまう…これはもうもったいないオバケが出る事案です。
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長くなりましたが、ネットやメディアが発達している今だからこそ、実際に対面しお会いする事を大切にしていきたいというのが私の考えです。
会ってみなければほぼ何も分からない!

現在、対面での面白い企画を考えています
色んな人を巻き込んでみんながおいしい企画になるといいな~
後日公開予定です。お楽しみに!

寝袋という安全地帯

こんばんは。
数日後に1年ぶりの上京を控え、若干情緒不安定気味なしょぼい喫茶店で働きたい人です。
何かもうちょっと名前短縮出来ないですかね~

家なし職なしの私は、いま唐突に寝袋が欲しい欲求に襲われています。寝るときに袋に入りたい。

どこで過ごすにせよ東京にもう自分の家はないので、見知らぬ場所で過ごすことになるでしょう。
知らない場所で眠るとなると何故だか無性に不安になってきます。
慣れてない場所ではどうしても落ち着かなくて大体寝れません。
慣れているはずの自分の家でも寝れないことは多いですがそれはもう仕方ない。

話が逸れましたが、寝れないことも困りますが第一に落ち着かないことが問題なんですね。
そう考えると安全地帯が欲しくなります。
もともと子宮という袋の中で育った名残りなのでしょうか?

包まれると安心するというのが本能的にありますよね。
それを寝袋があれば叶えられるのでは!?
と私は思うのです(´-`).。oO
安全地帯を簡易的に作るには寝袋が最適なのではないかと。
最悪、どこでもパーソナルスペースが作れるとなるとかなり心強い。寝袋がある!ってもうベッド持ち歩いてる様なものですから

子どもの場合、養育者と最初に育む情緒的な結びつきが心の安全地帯になります。
その安全地帯があるからこそ、子どもは養育者の元から少し離れて様々なチャレンジが出来るようになるのです。
同じ事とは言えませんが、ちょっと似てるかもしれません。
自分で安全地帯を作れるなら小さくてもちっぽけでもあった方が良いです。
それから、安全地帯は一つに絞らずになるべくたくさん持っていた方が良いですね。
一つだけに絞ると、そのたった一つの安全地帯を自ら壊してしまう危険性が高いです

ここなら大丈夫。ここは安心。
そう感じられる場所が欲しい。
同時に、そう感じられる場所を作りたいと切に願います。

まずは寝袋から始めてみよう。
果たして寝袋も担いで荷物も持ってトントン移動出来るんだろうか…
重さに耐えかねて途中で捨てたくならないかだけが心配です

枚挙に遑がない

最近好きなフレーズです。

【意味】
数え上げるときりが無い、数えられないほど沢山ある、などの意味の表現。「枚挙」は「数え上げる」という意味。

私は数え上げられないほどの可能性、思考回路、行動戦略がその背後には潜んでいる気がして、「枚挙に遑がないですが…」という前置き=枚挙しきれない程の武器を私は持っていますよ。という自己開示なのではないかと解釈してしまいます。

ブログや本でこの前置きを目にした事がある方も多いと思いますが、皆さんはどの様に感じるでしょうか?

この人は何かを持っている気がする。
この本で何かを得られる気がする。
そう期待させるには必要十分なフレーズなのではないかと思います。
そして、そのような期待を相手に抱かせた時点で例え期待に応えることがすぐに出来なかったとしてもその方はもうあなたの応援者です。

「はったりをかける」などという言葉もありますが、はったりとまではいかないにせよ、もしかしたらこの人は凄いのかもしれない。と1度でも思われれば人間はその自分の抱いた感情を正しいと信じ続けたいので、必死に正しいと信じるに値する証拠を探します。
逆に、自分の抱いた感情が間違っていると証明出来てしまうような証拠は無意識に見ない様にするのです。

ということは…
何を言いたいか分かりますね?
大事なのは徳を積み続け賢く優しい偉い人になることではなく、もしかして…もしかして…この人凄い人なのかも!?!と思わせる力です。

その力の示し方といったらこれこそ枚挙に遑がありませんが、この力が発揮出来れば「もしかして凄い人」→「本当に凄い人」に変わっていきますね。
外側からも内側からもどんどん刺激が加わるので、認知の中で絶えず行われているモニタリング⇔コントロールの結果、本当に凄い人になっちゃうんですね。

もしかして凄い人かも!?と思うのは皆さんにとってどんな人でしょうか。
100人いたら100人分の価値観があると思うのでこれを読んでる方の感じ方を是非聞いてみたいです。

以上、本日の学び録でした。

All-or-nothingとグラデーション思考

今日読んだ本で学びがありましたので書いてみます。

All-or-nothing
【意味】絶対的な、全か無か、妥協を許さない、失敗すれば全てを失う

このような考え方は抑うつ状態の方に良く見られる「全か無か思考」というものにあたります。
ですが、精神的に参った状態でなくとも何かショックな出来事があった時にこの様な思考に陥ることは良くありますね。

葛藤したり、迷ったりするからこそ全て綺麗に分別して踏ん切りを付けたい、そう思うのは決して不思議なことではありません。

白か黒か、全か無か、0か100か?
こう考えてしまうことで、何かが上手くいかなった時それまでの自分を全て否定してしまうことに繋がります。
もしくは今までの自分を全て否定された気持ちになってしまいます。
実際に何かが上手くいかない時に否定されているのは今までの自分の全てではありません。
ある時ある瞬間のある部分が否定されただけに過ぎません。そしてそれは形を変えたり、二三歩戻ってみるだけで如何様にも変容が可能です。

私自身も全か無か思考が根強いため、その分全てを否定されている気持ちになる事が日常で多々あります。

そこから「自己否定を繰り返す→自己効力感、自己肯定感が更に低下」の悪循環をどんどん生み出してしまう。
セリグマンの【学習性無力感】というものがありますが、犬を使った実験で発見されたもので、努力を重ねても望む結果が得られない経験・状況が続いた結果、何をしても無意味だと思うようになり、不快な状態を脱する努力を行わなくなること。
と定義されています。

人は良くも悪くも学習してしまうんですね。
生まれた時から無力感を感じていた方は恐らくいないと思います。
日々を繰り返すことで、少しずつでも確実に自分が無力であることや現状を変える力がないことを学習していくのです。
個人差が大きいので「自分ならできる!」といったセルフイメージを持ち続けていられる人もいます。
それは行動に大きな影響を与えるので、成功者は皆「根拠のない自信」を持っている事が多いですね

これは持とうと思って簡単に持てるものではありません。
経験や思考に裏付けされていないものをそう容易く持つことは出来ませんよね

そこでこれは良い!!!と思ったのがグラデーション思考です。(オールorナッシング思考”から“ グラデーション思考”へという著書に書いてあります。)

世の中はグラデーションの世界です。
白か黒かで決められるようなパキッと境目が見えるようには出来てないのです。
極端に考えず、白から黒への流れもじわ~っと徐々に色付くようなイメージがピッタリだと私は感じました。
美術の教科書で見た色彩表のような…段々と色付いてはいくけれどここ!というのがハッキリ表現出来ない。そんな感じです。
グラデーションで考えると、今の私も受け入れられる様な気がしてきませんか?

何かが上手くいかなくても曖昧なグレーに薄く薄くでも色を重ねると黒に確実に近づきますよね
逆に、真っ黒な部分にもすこ~しずつ白を重ねていけばグレーになっていきます。
曖昧ではっきりとは分かりづらい変化=グラデーションです。

苦しくなった時、全か無か思考になっていないか振り返ってみるといいかもしれません
そして、今悩んでることはグラデーションでは考えられないかな?と問いかけてみるのもアリです。

ボヤボヤし過ぎて自分がいま何色かも分かりませんが、私はそう考えるようにしてます。
「自分にもやれるぞ!」って思える気持ちが何より大切。これは自己効力感とも言います。
その気持ちを持てるからこそ、行動が起こるのです。
幼児期の子どもたちはこの自己効力感が非常に強いと言われてます。それは、自分では出来ない事が多い幼児期を乗り越えるため。
衣服の着脱や排泄、食事、入浴、会話や遊びなど多くの事をこの時期に獲得していきます

出来ない事を出来るようになるには「自分ならやれるぞ!」と思える気持ちが大変重要であることが分かります。

学校、職場、家庭、恋愛など様々な環境下で自己否定を繰り返してどうしようもなくなっている方も多いのかなあと思います。
少なくとも私だけではないなと感じたので、記事を書きました。

ここまで読んでくださりありがとうございました。
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本日のスープは売り切れました。

何にもない我が田舎町に、真っ赤な屋根の小さいラーメン屋さんが先々週オープンしました。
広すぎる青い空、どこまでも続く緑、そこに突如として現れた赤色の建物の存在感はどことなく異様に目立っていると表現する他ないですね

オープン直後はさすがに混むだろうと思ったので今日の13時頃に行ってみました。
私の田舎町に美味しいラーメン屋さんはありません
何かお店が出来ても知らぬ間に潰れている事が多いです。
ちょっとまぁ物は試しに食べてみるか~くらいの気持ちで行ってみたのです。
駐車場には車が1台停まっており、やはり昼時にこの人気の無さは…またここも潰れてしまうのか…と思いながら車を降り入口に向かいます。
すると、入口の扉に『本日のスープは売り切れました』

本日のスープは売り切れました!
白い紙にそう書いてありました。
お店の営業時間は11:00~15:00です
僅か2時間ほどでスープが売り切れ、店はもう閉まっていたのです。

クソ~~~!!!!やられた( ; ; )( ; ; )
1度食べたいと思ったものを食べられないとなると益々食べたくなるのが人間の性ですね( ; ; )

麺だけで良いんで食べさせてください!!!と言いたくなりましたがそんな事は出来ないので諦めざるを得ません

ラーメンを食べたい気持ちは抑えきれず、昔からある特別美味しくはないけど不味くもないラーメン屋さんが近くにあったことを思い出しそちらに向かいます

そこは駐車場に小さな看板が出ていました。
『売り切れ。本日は終了しました。』

もう( ; ; )( ; ; )( ; ; )( ; ; )
ラーメンが食べたい( ; ; )( ; ; )( ; ; )
お店のあったかい出来立てのラーメンが!!食べたい!!

もう私の町に食べたいラーメン屋さんはありません

オープンしたての真っ赤なラーメン屋さんは、客足がどの程度が掴むためにスープを今は少量しか作ってないからすぐ売り切れたのかもしれません
もしくは、希少性を高めるために敢えて早い時間に「売り切れました」と店じまいすることで口コミを広げる戦略かもしれません

何にせよここのラーメンを食べてみたいという気持ちをくすぐる事に成功しています。
人々の会話で「あそこのラーメン屋はオープンして2時間で売り切れてて、食べられなかった」と話題に上がることでしょう

もし私が店主だったらお客さんに対して、欲しいものを好きな時に好きなだけ与えたくなってしまう気がします。
でもそれじゃきっと商売は成立しないんだろうな…と感じました。

いつでも手に入る物には価値を感じづらいですね
欲しがったものが全て手に入るのは店主にとっても、お客さんにとっても幸せな事ではないのかもしれません。
欲しいと思ってすぐに手に入ってしまうと満足してしまいます。
ですが、手に入るまでに時間や労力を費やしたものであれば例えそこまで美味しくなかったとしても 認知的不協和が働き、美味しかったんだと人間は思い込もうとします。
時間や労力を費やした価値はあったんだと自分自身に思い込ませることで不協和状態を解き納得させようとします。

どこまで店主さんが考えているかは分かりませんが、『希少性』というのは想像以上に人を惹きつけて商売を続けていく事に大きな影響がありそうです。
勿論激マズだとしたら、それはそれですぐに口コミで広がってしまいますが何となくいい感じだった場合にはかなり効果がありそうな戦略ですね。

どうしても耐えられないので、再び山を降りていつでも空いててまぁまぁ美味しいラーメン屋さんに行きます。
こういう時に希少性の真逆をいくお店の有り難さを感じるのもまた事実…ラーメン…

ルイボスティーと紅茶の違いも分からない

ルイボスティーだと思って先日飲んでいたものが実は紅茶だということが今日判明しました。
現在、実家に住んでいるのですが家は家族全員がいつでも飲めるような飲み物(お茶)を大きいヤカンでどかっと作ります。

麦茶やナタマメ茶、ルイボスティーハトムギ茶など時期により様々です。
大体私か母が煮出して1日で皆がそれぞれ飲み消費していくスタイルです

先日飲んでいたのは母が作ってくれたものでした。ここのところ毎日ルイボスティーを飲んでいた私はその中身が紅茶に変わっていたにも関わらず、今日のお茶は1段と風味が強いな…などと思い写真を撮り得意顔でツイッターに載せました。

そしてそれは紅茶だったと先程母に教えられて知ったのです。

それが何だよって話しですが、思い込みって凄い!!!って話しですよ皆さん。
私は現在、認知的スキーマ(枠組み)やバイアスと呼ばれるものの勉強をしている最中の身なので余計にこれは…!!と気付きがあったのでブログに書いてます。

私たちは日常生活や学校生活などの中で、少しずつ思考の枠組みを作っては修正し作って修正を繰り返して生きています。
枠組みは幼ければ幼いほど柔軟性があり、年齢を重ねれば重ねただけより強固な揺るぎにくいものになっていく傾向があります

そして何かを判断する時にその枠組みを利用し考え、日々生きていく中での様々な事柄を選択をしていくようになるのです。

先週も先々週も昨日もルイボスティーだった。
だから今日もルイボスティーに違いない。

これも私の中にある思考の枠組みがそう判断しました。
だから味が違うのではなく、風味が強いという捉え方をしたのだと思います。

そしてそこにはバイアス(思考の偏り)も関係しています
バイアスにも種類がありますが、今回は確証バイアスが働いたと考えます。
自分の都合の良い情報だけを集めて、それにより自己の先入観を補強するという思考の偏りです
自分に都合の悪い情報を探すことを怠ったり、反証となる証拠を無視したりして先入観の補強を続けます。

これは困難を乗り越える為に自分の行動に自身を持つために必要な偏りだと私は思います。
ただ、そういう傾向が人にはあるというのを一つ上の段階から俯瞰出来ると良いですよね

喫茶店で働きたい人がルイボスティーと紅茶の違いも分からなくてどうするんだと笑えてしまいましたが、これが目隠しをしてどっちがどっちでしょう?と聞かれた場合にはまた結果が違ってくると思うのです

ちょっとしたことで思考の枠組みは歪むし、何かと考え方は偏ります。仕方のない現象です。
なのでそこを逆手に取っていきたいと考えます

行動が変わると思考が変わる。
どこかの誰かが言っていたフレーズは皆さんも1度は聞いたことがあるのではないでしょうか?
逆にいうと、行動が変わらなければ今の思考が変わる事はないということです。

いま行動を変える元気のない人は休みましょう。
(私も鬱病になった時に今は休めと周りから沢山言われましたがどうやって休んだらいいか分かりませんでした。それについてはまた今度書きます)

でも元気のある人や出てきた人は、いつもと少し行動を変えてみるのも良いかもしれません。
濁った思考回路に新しい空気が入って、今より息がしやすくなるかも

今までの自分だったら絶対に選ばなかった方を選んでみるのは楽しいです。
行動を180°変えるのはかなりの難易度ですが、気持ち的に15~30°変えるだけで景色は全然違います。それはハッキリと言えます。
カメラマンとかも同じ様なこと言ってそうですね笑

もし負のスパイラルや生き地獄ループに陥って、息をするのも嫌になっている人がいたらぜひやってみてください。
私もいま自分で自分に教訓回帰中ですが、息もしたくない程に全部が嫌になっていた所から抜け出すきっかけをくれたのは他でもないこの『しょぼい喫茶店』です。

勉強してみたことを実際に起きた事で検討して文字に起こすと得るものが多いのでまた書きますね。